劇場文化

2019年11月2日

【寿歌】瓦礫の荒野と蛍の光―北村想『寿歌』における聖性(安住恭子)

 北村想の『寿歌』は、戦後の日本の戯曲の中で、最も上演回数の多い作品といってもいいのではないだろうか。北村が書いてから四〇年ものときがたつのに、今なおどこかしらで上演されているのだという。それぞれのカンパニーが新作戯曲を上演することの多い日本の現代演劇の中で、それはかなり特異なことだ。なぜこの作品は、それほど演劇人を引きつけるのだろう。
 おそらくその秘密は、この戯曲がはらむ透明な明るさと切なさにあるのではないだろうか。核戦争が終わった瓦礫の荒野を、旅芸人のゲサクとキョウコがあてもなく歩いている。するとその前に、ヤスオという男が現れ、三人はひととき共に旅をする。ただそれだけの話である。ゲサクとキョウコの会話も芸も、まるで冗談のようにいいかげんで、戦争で多くの人が亡くなったことや、仲間と行きはぐれたことなど、まったく意に介していない。それらへの屈託は一言も語らずに、リチウム爆弾の炸裂を花火のように眺めているのだ。つまり彼らは終末の世界に、純な生命体としてただポツンといる。この、一面の荒野にポツンと在る小さな生命という設定が、透明な明るさと切なさを、まずは引き起こすのだと思う。
 闇に小さく光る蛍のように彼らは在るが、その光は旅芸人という生き方から発している。たとえどんなに拙くいいかげんではあっても、芸は彼らの存在証明であり、それを糧に生きている。このことは、『寿歌』を書いた当時、27歳の北村想が、演劇とともに生きていくと決意したことの象徴ではないか。戦争や災害のあるなしにかかわらず、生きることは荒野を渡っていくことだ。瓦礫の荒野は常に目の前にある。生きることは切なく厳しい。それを渡る一つの力として、北村は演劇を選んだ。魅力的なおもちゃでありながら、その創造が豊かな想像力をひろげ、心の糧となる。「戯作狂言」から名付けられたゲサクとキョウコは、共にその演劇の精なのだ。とりわけ無垢なキョウコの有り様は、聖性さえ感じさせる。北村は演劇をそのように発見し、軽やかに戯れることを選んだ。その発見の喜びが、『寿歌』というタイトルの理由の一つだろう。
 では、ヤスオとは何か。それは劇中でゲサクが語るように、「ヤソ」つまり神だろう。実はこの戯曲は、ペテロとアンデレの兄弟がガリラヤ湖畔でキリストに出会った、「新約聖書」のパロディのようにつくられている。けれども『寿歌』から聖書を思い浮かべることは、あまりないようだ。それはこのヤソ像が、いかにも無力で頼りないからだ。「物品取り寄せの術」なる力はあるものの、厳しく偉大なキリスト像からは遠くかけ離れている。彼は教えを説くわけでもなく、罪を問い、罰や救済を与えるわけでもない。むしろ配ったロザリオにカミナリが落ちるという、災いをまねく存在だ。けれども北村想は、そのようなヤソをこそ神とし、信じたいと思ったのではないか。上から教え導く神ではなく、横に並び、ひととき一緒に歩いてくれる神。現世のことにうとく、夢見る少年のような神。北村は当時やはりキリスト教に近づいているが、自分なりの神をそのように発見した。その発見もまた喜びであり、『寿歌』というタイトルのもう一つの理由にちがいない。
 ではなぜ、そのような神を思い描いたのだろうか。それは観念としてでなく、現実に、瓦礫の荒野を目の前にしたからではないか。単なる不条理の体験ではない。「生きるとは何か」と深く深く問わずにはいられないほどの、生きがたさを感じたのだと思う。それは青年期特有の憂鬱症だったかもしれない。しかし、心の危機ではあった。そう思うのは、ゲサクが語る衝撃的なウサギのエピソードによる。雪山で倒れていた主人を救うために、ウサギがたき火に飛び込み、自らウサギの丸焼きをつくったという話だ。これは仏教の菩薩道を説く説話だが、ゲサクはそれを、菩薩道でも貴い犠牲的精神でもなく、「うさぎが命を賭けて報いた仕業もせいぜいがえさになることだったんや」と解釈するのだ。この「悲しさ」が分かるか、と。たった一食分の値でしかない命。その命を生きるしかない私たち。
 この身を切るような悲しみに対応できるのは、尊い説教の言葉でもなければ、現世利益でもないだろう。ただひとときそばに寄り添い、ずっと遠くを夢見る眼差しによって、わずかの安らぎと慰めを与えることのできる神。北村はそんな神を自分の中に創造した。そして『寿歌』は、それら演劇と神に対する思いを率直につづった一編なのだ。深い絶望と同時に、発見の喜びがある。虚無感と同時に明るさがある。切なさ同時に笑いがある。そして演劇と神と共に生きるという決意がある。それらを全部飲み込んで、一編の象徴的な詩が吐き出された。
 昨年、宮城聰演出の『寿歌』は、静岡の舞台芸術公園で、私の知るかぎり初めての野外公演として上演された。深い木立を背後に、両脇を石の壁で囲まれた、いわば谷底のような空間に、ゲサクとキョウコとヤスオが、外の闇と風と月明かりに立った。メビウスの輪のような、あるいは永遠を表す∞のような、カミイケタクヤの舞台美術が、人間の生の道程を象徴した。そして遊戯性を強調した演技が、屋内で上演される以上にこの作品のメルヘン性を感じさせた。その舞台がまた再演される。今回はさらに、「あっちはどっちや」という存在の不確かさとその切なさを胸に、永遠に歩いて行くヒトの姿を見たいと思う。

【筆者プロフィール】
安住恭子 AZUMI Kyoko
演劇評論家。元読売新聞記者。記者時代から雑誌「新劇」「演劇界」などに演劇評論を執筆。現在は、中日新聞などに演劇評論を連載。著書に、『青空と迷宮-戯曲の中の北村想』(小学館スクエア)、『「草枕」の那美と辛亥革命』(白水社)など。同書で「和辻哲郎文化賞」受賞。名古屋市芸術奨励賞受賞。